光輪洞合気道
薩摩 <清進館鹿児島支部>
国分武道館
光輪洞合気道
合気道の名称及び内容は、大日本武徳会によって昭和17年に制定された。
大日本武徳会は明治28年4月に日本古来の武道の奨励を目的とし、公共の全国組織として京都で発足した。
大日本武徳会は柔道、剣道、弓道、各種武道などの部門に分かれて活動し、学校教育をはじめ、
社会全般の武道の普及と温存の目覚ましい成果を上げていた。
しかし、昭和になって各部門の専門化とスポーツ化の発展により、日本古来の武道の特徴である
体術、剣術などを同時に使える日本古来の総合武道体系の消滅が危惧されることとなった。
武道の専門家や研究者の間で新しい武道部門の制定の声が上がり、
大日本武徳会では柔道部門と剣道部門が協力して新部門の編成に取りかかった。
大日本武徳会は、総裁、理事など総合的な役職の下に、各部門の責任者として幹事を任命していたが、
新しい部門の中心幹事に平井稔氏を指名した。
当時、平井稔氏は柔道部門に所属し、柔道達士の称号を持ち、各種武道称号審査委員、陸軍憲兵学校教官、
大日本武徳会東京支部長などの職責にあった。また武道の分野では、大日本武徳会本部の
剣道教授・奥村二刀流の奥村寅吉門下で剣を得意とし、武内流、力信流など古式の体術、剣術、杖、槍、手裏剣等も
修練して、すでにすでに自らの道場を持って、総合的な武道体系を編成していた。
大日本武徳会では、平井稔氏を中心に実践的綜合武道としての合気道部門の組織作りと武道体系の編成に入り、
練習の方法として、無手の体捌き七本、体術、杖の型、乱取りの方法および武道で最も重要な体のさばきなどを
制定し、各県庁所在地にある綜 合武道場である武徳殿を中心に講習会を開催した。
大日本武徳会では戦後、平井稔氏の功績に対して範士の称号を授与した。合気道における範士の称号所有者は、
戦前戦後を通して平井稔範士がただ一人である。
大日本武徳会は昭和21年10月、米国占領軍の指令で解散した。合気道に限らず剣道、柔道などすべての武道は
占領軍に制約され、武道の真空状態になった。知名度の低かった合気道については、その後、大日本武徳会以外の
流派で合気道の名称を使う所も増え、合気道の名称も広まることになった。
大日本武徳会の剣道は、一般に大日本武徳会流剣道と言われ、柔道においても同様であり、合気道においても
同様である。合気道・道場光輪洞はその武道の系譜を継ぐものであり、当時の合気道関係者と平井範士門下でつくる
各地の光輪洞が集合して日本光輪会を編成している。
なお、平井稔範士は戦中戦後を通じ、合気道など武道以外の分野でも多方面において活動しており、特に昭和20年に
戦争処理に当った東久邇内閣で近衛副総理府の内閣嘱託、戦後は警察の再編成時に警察官逮捕術の制定委員、
福祉の分野では各地の母子寮、保育園を運営する社団法人の育成などに従事している。
また戦時中には早期停戦を望むグループの重要な一人としての活動が、歴史資料の中に実名で記載されている。
現在日本光輪会は、初代平井稔洞主、2代平井智弘洞主を経て3代平井斉洞主と共に歩んでいます。
~明治神宮奉祝演武パンフレットより抜粋
平井稔先生
母体武道としての光輪洞合気道を創始され
「円転無窮」
「円和一元」
を体得するために7つの体捌きを考案されました。
山梨達介
光輪洞合気道八段
内弟子として修業された後
静岡県静岡市清水区(旧清水市)
光輪洞合気道清水支部において
合気道の普及に務められました。
その技は
現光輪洞合気道清水支部
清進館 館長平岡祥淑氏(光輪洞合気道6段師範)
に継承されている。